2012年4月11日水曜日

ブランドはミームと成れるか #2  Studer編

デジタル再び
次代のメディアとして大きく注目されたデジタルは、それまでのアナログを易々と超える高いパフォーマンスを聞かせてくれると期待していた。ところが、聞くほどに、探すほどに、次第に興味は萎えていく。

何が不満といって、アナログより有利と考えられていたダイナミクスは勿論の事、アタック・ハーモニーが出ない。一見、実体があるように見えるのに、ホログラムのようにリアリティーが無く妙にヨソヨソしい。音楽を聴く充実は希薄で楽しくない。更に、技術の発展と共に現れた機器は分解能は高いが、実体感は更に減退した印象である。アナログの持つプリミティブな機械としての面白さとそこから生み出される音楽の豊穣さを超える事は無く、デジタルで音楽を聴くことはほとんど無くなってしまった。

日常はデジタル抜きには維持できない程とりまく環境は、大きく変わってしまった。その浸透と集積はCDを既に過去の物とし、流れはネットワークへと移行し始めている。デジタル(オーディオ)の現在と可能性をもう一度確認しなければという思いが募る。

今更、CDプレーヤーという雰囲気もあるが、今だからこそという意義もあるのだろう。原点を確認しようと原器とも云えるLHH-2000を探したが入手は難かしく、実質の後継器Studer A-730 を探すことにした。

                

Studer A-730
そのStuder【スチューダ】 A-730がやって来た。
ほとんど使用されずに保管されていたのかコンディションは抜群で、懸案のバッテリーも交換され、ピックアップはCDM-3から CDM-4に変更されている。スラントしたスクエアなパネル全面にスクエアなスイッチを配したデザインは、機能的で存在感がある。機能を集約して尚均整の取れた美しい佇まいは、昨今のデザインのためのデザインの中では、一層新鮮に感じさせる。

CDM-3 vs CDM-4
このCDプレーヤーで必ず話題となるのがピックアップメカで、取り分けCDM-3が大きな支持を得ているようである。 ピックアップによって音は変るのだろうが、CDM-3を使用したモデルの音が必ずしもよい訳ではなかったので、使用しているピックアップメカに特別な執着はない。比較試聴の機会があれば、その時にレポートしたい。

730の不思議
使用してみると、不思議な事がある。 
・例えば、キズのあるCDを掛けると最初は、大きなノイズが出るのだが、二度目、三度目と掛けると、そのノイズはだんだんと小さくなり、いつの間にか何事も無く普通に再生してしまう。 
・ストップスイッチが無い為、トレーを開けて、ストップさせるのだが、数回はその度にCDがクルクルと空回りをしてから静止していたのに、いつの間にかトレーを開けると同時にCDはピタッと止まるのである。これらのことはD730でも同様であった。まるで、学習しているように。

設置
メカが斜めに取り付けられている事から、設置は斜めが良いのか、それとも水平に設置した方が良いのかも、話題の一つである。評論家の実績から、水平に設置するという意見が支持されているようだが、簡単な事なので試してみれば、決着は直ぐに付く。

何故、スチューダーは常態でメカが斜めに成るように設計したのか。デザインの為だろうか?
音響的なメリットがあるから、敢えてその様に設計したと考える方が、順当と思うが如何だろう。

CDは正確にピットをピックアップで読み取るのはサーボ技術故である。ところが、デジタルの音やピックアップによる音の違いを生む要因は、そのサーボの所作であり、取り分けパルス性のサーボ電流の変位が他の回路に影響を与えるためと考えられている。 

その対策として他のメーカーでは、ベルトドライブ、ピックアップ固定式などが工夫されている。
ドライブメカを斜めに取り付けるのも、これらと考えを一にした”一定のサーボを掛ける事によって、実際に要するサーボの変動分を吸収するための工夫”で、ドライブメカを改造する事無く対処したスマートな方法だと思う。

以前ネット上に、この点を検証したサイトがあったが残念な事に今探しても見当たらない。
斜めに設置したメカと水平に設置したメカのサーボ電流を測定したデータを比較していたが、そこに示されたデータでは、斜めに設置した方は綺麗な正弦波のような波形で、水平に設置したものはピーク値は低いものの連続性がない波形であったと記憶している。
更に、外来の振動で簡単に音飛びする事からも、サーボ量は非常に弱く設定されている様で、
このことからも、730を生かすには、セッティングに慎重な配慮が必要となる。

接続
スチューダはレコーディング機器の伝統に則り、アナログ回路はバランス接続であり、出力にはトランスを使用している。このトランス、オーディオファイルの間では、きれいに賛否が分かれてしまう。

730ユーザーはバランス派が支持を得ているようだが、一般にはトランス不要派が主流のようで、信号系のトランスはどうにも評判が悪い。曰く”音楽信号を変調する、ナローレンジになる、フィルターだ。” ご指摘 ごもっとも。それでも市販されているレコード・CDはほとんど全てこのトランスを介して録音されている。

730は既に知っている、使っていたと言う人で、実際に730のバランス出力をバランスのトランス受けで音楽を聴いた人は案外少ないのかも知れない。聴いた人はご存知と思うが、鳴り方は、730のバランス出力をシングル(RCA)で受けた時とは全く異なり、トランスを介して信号の受け渡しをするプロ機器の片鱗が窺える。トランス受けではない状態で使用していた人は、是非トランス受け、出来れば、Haufe、Neumann、WE(鉄心馬蹄型)のトランスを二段にして音楽を聴いて欲しい。今までの時間を返して欲しいと思わせる程に違う。気に入らなければ簡単に取り外せるのでトライする価値はある。 

スチューダの音
さて、この様な状態でセッティングしたStuder A730は、今までデジタルに持っていた印象とはまったく異なる音楽を聞かせてくれる。単に音の再現に留まらず、音楽の本質は、音の重層によって醸成されるハーモニーである事を、その一音で知らしめるのだ。無音・静寂でさえ豊潤である。既に語りつくされモノを取り上げ、今更称揚したところで、大した意味も無いのだが、その音、そこに再現される音楽は、色々な事を考えさせる。デジタルと揶揄し・された”あの音”はなんだったのだろう。

ブランドはミームの担い手になれるか
その後、Studer D730・EMT 981が入荷してきた。これらのCDプレーヤーを聴いた印象は、
Ortofon SPU・ SME Seriesⅴ・Telefunkennのアンプ・EMI DLS529など聴いた印象と大きく共通したところがある。云うのも少し気恥ずかしいのだが、音楽に呼応し流れ始める内面的”感情”;アンダーカレントは、明確で途切れることが無い。

トリガーは、音一つ一つの音色と音が重なったハーモニーの醸成その再現に優れているところ、ではないか、と感じている。メーカーも機器も異なるこれらが、同じような傾向を示すのは何故だろうか?この事を単に”音楽性”という言葉で括って良いものかと、聴くたびに考えてしまう。

音楽性
オーディオとは不思議なもので、音楽信号を電気で遣り取りする単なる機械で繋げば、音は出る。正常であれば、クラシック、ジャズ、ロック、民謡、エスニック、何であれ入力された電気信号である音楽が音となって出力される。ところが、音は良いのだけれども中々音楽を聴いて楽しむことが出来ないという感想が聞かれる。”音”は良いのに”音楽”は上手く鳴らない?一体どういうことだろう。ここがオーディオ機器の価値を分ける分岐点になるのだが。

この”音と音楽”を分かつ問題はどこにあるのだろうか? 嘗ては議論の的になったテーマが、音楽性。今では、単なる論議に終始し、結論が出ないと言うことで、すっかり形を潜めている。
要約すると、オーディオ機器の設計には、単なる技術的な洗練だけでなくそこには音楽性が必要だとする一方で、純技術的に解決出来るとした考え方の是非である。

その議論の中では、欧米のメーカーは前者(便宜上 音楽派)であり、もう一方のピューリスト(便宜上 原音派)とも云える主張は、電気や機械に選択性はなく入ってきた信号を正確に伝送或いは増幅し出力すれば、信号の中にある音楽性をも含む全ての信号を再現できれば音楽性などという抽象的な概念・感覚を挿し挟む必要は無い。当時勢いのあった日本の先鋭的なメーカーはこの立場であった。 
この流れの汲む主張をサテンの記述から引用させて頂く。
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最高の音楽性は元の演奏の中にのみあります。

オーディオ機器を製造する場合どうせ元の演奏を全く変化させずに再生することは不可能であるので同じ変化するなれば人間が聴いて好ましいものにするという立場と、人間の聴覚にとって必要なものは極力変化させないようにする立場とがあります。 

サテンは一貫して後者の立場に立っております。それは前者の場合はどのレコードもある楽しさで聞くことはできますが、もはやそれ以上のものはありません。その好ましさもある種の変形の結果で、いかなるときも元の演奏に蔽いかぶさるので元の演奏の無限の音楽性を隠してしまうからです。しかし後者の場合は一度成功すれば同じレコードでも聴く度ごとに元の演奏から無限に新しく音楽性の発見をすることができるからです。しかし後者の道はこわしてはならない必要最少限のものは一個所たりともおろそかにできません。
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実名をだして恐縮ではあるが、更に踏み込んでDCアンプの”金田 明彦”氏はかつてこう明言していた。

正しい音は一つです。 メーカー製は売らんがために音に特徴を持たせるのが宿命です。
唯一その正しい音をだす(出そうとしている)のは(自分の)DCアンプです。”

共に、明快でロジカルなレトリックは人を惹きつける。理想が現実であれば抗う事は難しい。 
 
オウムは人の声で喋る?
話が少し飛躍するが、オウムや九官鳥は人間の言葉を真似て喋ることは良く知られている。
実際、彼らが話しているのを聴くと、本当に人が話しているようで”ギョ”とさせられる。

ところが、実際の音声として捕らえた時には、彼らの話す言葉が人間が話しているように聞こえる事には、大きな聴感の飛躍がある。つまり、彼らの小さく短い喉では、基音は人間の声よりずっと高くなるために、再生速度を速くした様な高い音声に聞こえる筈なのだ。

不思議なことに、その高調波のスペクトルが一定のプロポーションを持つと無いはずの基音が人間の脳の中に形成される為、鳥の話す声が、人間の声に近いと感じられる(実際の周波数より低く聞こえる) というカラクリがある。脳聴感が持つソフトの不思議である。

人間の感覚は単に物理的に情報を看取することは難しく、そこに何らかの意味を読み取ろうとするために、積極的に錯誤するようなソフトを備えていると考えられているようだ。

音楽を聴いた時に脳内での補正を必要とする多寡は、生演奏を聴くという事とオーディオで聴くということ、更に云えばオーディオを聴いて自然と感じるか否かという事と深く関係しているのではないかと考えている。より多くの補正を要求する音のバランスを不自然と感じているという事である。

ツイーターを付ける。或いは高音がすっきりすると低音が変わって聴こえるというような事象、オーディオで良い音を聴いているのに暫くすると疲れるという現象も、この観点から見れば成るほど合点がゆく。

通奏低音
更に話題が広がってしまうが、世界中の民族・国にそれぞれ音楽があるが、ヨーロッパの取り分けクラシックで尤も特徴的な点は、低音がある事とハーモニーを生み出した事ではないだろうか。音楽の要素として持続する低音を発見した事が、音楽を際立たせて発展させた原動力ではないかと考えている。バロックの時代に通奏低音付きと謳われた音楽が、今日の音楽興隆の直接的な要因とするの少し乱暴な話かもしれない。専門家の研究を調べる必要もあるだろう。

しかし、低音が構成する豊かな倍音スペクトルはオームの話す言葉のように、人間の耳には”実際の音以上に豊かな”低音を感じさせて重厚な厚みを響かせる。それは、更に個々の楽器が重なり合った音が渾然一体の別の何かに醸成された音”ハーモニー”へと変容するのである。持続する低音の発見が、大きな転換点であったことは確かなように思う

あるフランス料理シェフはフランス料理の本質をこのように説明していた。 

”フランス料理の本質は足し算だ。そしてそれらの素材の持ち味が幾重にも重なって渾然一体のハーモニーを生み出すことだ ”と。

フランス料理を音楽(オーディオ)に読み替えると
音楽(オーディオ)の本質は足し算だ。そしてそれらの素材の持ち味が幾重にも重なって渾然一体のハーモニーを生み出すことだ となる。
この視点は、料理に留まらず、欧州の文化的背景を、的確に要約し説明しているように思う。

オーディオの音楽性
外国語が理解できなくても、響きやイントネーション等の特徴を知っていれば、話されている言葉が、何語か(英語 韓国語、ドイツ語スペイン語フランス語)という事は聞けば直ぐに判る。ところが、長く習った英語の内容を聞き分ける事は、日本人は得意でないようで、近年では、英語の習得度は諸外国では、最下位に近いそうである。 

その原因として考えられているのが、文法中心のカリキュラムと英語耳ないし英語脳としての訓練が必要であると言われている。それは、英語が多用する周波数と日本語の周波数が異なる為、日本人にとっては、英語である事は判っても、上手く聞き取ることが出来ない、という事のようである。

これと同じような事が先に挙げた脳内ソフトと共に、オーディオにも言えるのではないだろうか?

Studer EMT Ortofon Telefunkenn SIEMENS SMEを聴いていると、彼らがサテンや金田氏が云う売る為などの作為的な音作りをしているのだろうかという疑問を持つ。

音楽性という概念を持ち出すまでも無く、彼らが意図的に音をチューニングしているのではなく、自然あるいは、原音に近いと判断した結果であるように思う。彼らも同じように、人間の聴覚にとって必要なものは極力変化させないようにする立場を取っていると考えるそうでなければ、メーカーも機器も時代も開発者も異なるこれらが同じような音質傾向を有する説明が出来ないのではないか。

ここで前掲の原音派の要約をもう一度まとめてみよう。

オーディオ機器を製造する場合、どうせ元の演奏を全く変化させずに再生することは不可能であるので同じ変化するなれば人間が聴いて好ましいものにするという立場と、人間の聴覚にとって必要なものは極力変化させないようにする立場、があります。 

正しい音は一つです。 メーカー製は売らんがために音に特徴を持たせるのが宿命です。

”極力変化させないようにする 或いは正しい音は一つです。”という主張はどうやって確認されるのか。開発過程は音楽派であれ、原音派であれ実質的に大きな違いは無い。音の是非を決めるのは、そのメーカー或いは製作者で、結局、音の違いは開発者の違いである。

日本人が良い音とするミームは日本語を元として、雅楽、筝曲、民謡など、日本の伝統的文化的背景から醸成されている。そして、開発の過程で選択する音は無意識の内にそのミームに従っている。音楽派と比して低音とハーモニーの感受性捉え方が異なっているのではないだろうか?
そのために、原音派の音がその主張に反して、脳での補正を多く要し、ハーモニーは単音の集合音でハーモニーへの変容を聴かせてくれない。

欧州に代表される音楽派は(実際その様に区分されるものは無い)が、音楽・オーディオとして、個々が重なり合った音を、渾然一体の別の何かに醸成された”ハーモニー”へと変容する音を、時間的・地域的制限を越えて聴かせてくれる。それは、彼らが無意識の内に選択するミームがある事の証左ではないだろうか。

オーディオにおける音楽性とは、技術的な問題ではなく、ミームの齟齬である。







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