2012年2月27日月曜日

ブランドはミームに成れるか #1

少し前の二月六日 中日新聞に次のような記事が。全文を掲載させて頂く。
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- 中日新聞の"中日春秋"より -
ドイツの名指揮者フルトベングラーは、1942年の演奏会で、自分が率いていた楽団の音をウィーンフィルのそれに近づけようと、一計を案じた逸話を明かしている。

同じ楽器を注文して使わせてみたのだ。 だが、<そのその思惑は的外れ>に終わる。むしろ音は<普段よりも鈍く光沢の無いもの>に。次の演奏会では元の楽器に戻さざるを得なかったという。「音と言葉」より

楽器の良しあしとはなかなか玄妙なものである。それでも、少し前、米紙ニューヨーク・タイムズが伝えていたパリ大学の研究者による実験には驚いた。

ストラディバリウス・グァルネリといえば十八世紀に作られた「億」の値がつく名器。それと現代の高級バイオリンを、国際コンテストに参加していた二十一人の演奏者に、目隠しして弾き比べてもらったら、現代の現代のバイオリンの音の方がずっと高い評価を得たのだと言う。

材料の木、塗装など、名器の音の秘密を探求する研究は多いが、「秘密があるとすれば人の心の中にだ」とパリ大学の研究者。米国の有名なコンサルタントの言葉を思い出す。<製品は工場で生産されるが、ブランドは人の頭と心の中でつくられる。>

もっとも、これで「億」の名器が値崩れしたとも聞かぬ。こうとでもいうしかあるまい。ストラディバリウスはストラディバリウスだからだ、と。
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このコラムは実に面白い。


ウィーンフィルはフルトベングラーの憧れ
フルトベングラーはウィーンフィルの音色を良いと思っていた。あるいは目指していたのか。
同じ楽器を注文したとあるが、まさか全てという事は無いだろ。話の流れからバイオリンを注文したのだろうか?何丁? 楽器は演奏家にとって身体の一部であるとも喩えられる事を思えば、随分乱暴な話で自ずと結果は判っているようにも思える。それも1942年という逼迫した時に? 

エピソードとして面白いが、状況を想像するとまったく不思議な話である。尤もオーディオに於いても音の良いと言われる機器や部品を集めても、なかなか良い音にならない事は、好く経験することではある。

ウィーンフィルの事は、「音と言葉」からのエピソードであるから、事実なのだろう。音楽の理解を深める機会でもあるし、手にとって前後の状況を確認したいと思う。

その後の話の展開は、釈然としない。

市場主義
ここで話題となっているバイオリンは、有名なコンサルタントがイメージするような工場で、大量に作られている物ではないし、ストラディバリウス・グァルネリはブランドではない。

コンサルタントが率先して、市場から良い物を見付け出し”良い物”だから、これを世界に広めようという仕事の流れは有り得ない。顧客の依頼を受けて、コンサルタントは戦略を立てる。

コンサルタントが牽引する現代市場主義は、市場の創造という名の元に、人々の性向・嗜好・地域・年齢など細分化したファクターを変数化・数値化する。そして、これらデータに基づいた市場戦略を、コンサルタントが企図する。有態に言えば”欲しくも無い人に、物を買わせる戦略である。

市場喚起によって購買欲を刺激されたターゲットである我々は、無意識のうちに”自己判断の元”にある方向に押しやられる。知らず知らずの内に、見えない囲いに導かれていくという訳だ。
”ブランド”はこの時、欲望を何倍にもレバレッジする触媒として機能する。馬に水を飲ませる事はできないが、人間にはある仕組みさえ作り上げれば、簡単に水を飲ませる事が出来るという戦略である。つまりコラムにある<ブランドは人の頭と心の中でつくられる>は、正確には<ブランドは人の頭と心の中に巧妙につくり出される>と書いた方がより正確な表現だろう。

バイオリンはブランド?
一方、バイオリンは、こういった市場原理とは異なった価値に支えられている事に、異論は少ないと思う。バイオリン製作は世界中で行われ、成果を競うコンクールも開かれている。

イタリアで行なわれるトリエンナーレ(3年毎)が有名で日本の製作家も多数参加している。伝え聞くところによれば、バイオリン製作は、ひたすらバイオリンの古典の再現・完璧なコピーを目指すそうである。
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参考までに、ニューズウイーク『世界を極めた日本人』に選ばれて高く評価されいるクレモナ在住日本人バイオリン製作家菊田氏を、紹介しておきたい。

              

第11回ヴィエニアフスキー国際ヴァイオリン製作コンクール 優勝同時に最優秀音響賞受賞
第13回チャイコフスキーコンクール(ロシア)ヴァイオリン製作部門に参加、第1位ゴールドメダル受賞
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このコラムでは、現代に製作されたバイオリンが、最高峰とされるストラディバリウスなどより音の評価が高い事を取り上げて、人の心の中にあるブランドイメージが物の本質を見えなくしている事例としているが、重要な事を見落としている様に思う。

”バイオリン”は変化を、進歩・進化を清清しい程にさっぱりと拒否している。時代に、ましてマーケティングにも合わせようとしない。実際そこには何も問題は存在していない。

何故なら、究極点は既に決まっている。ストラディバリウスを中心とするバイオリンは規範として存在する。ひたすら研究する事によって、様式や手法や更にいえば演奏スタイルも維持・保存される。逆説的な表現を借りれば、変化を拒否したバイオリンこそ、楽器は音楽家の精神の外延となり、音楽は深く深化する。

変化を求める心の前に、チベット仏教のテルマのように、何度も何度も立ち現れるストラディバリウスは、クラッシク音楽のミームとしてある。
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- ウィキペディア - より抜粋
ミーム(meme)とは、文化を形成する様々な情報であり、人々の間で心から心へとコピーされる情報のことである。ミームは、習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる情報である。ミームは会話や文字、振る舞い、儀式等によって人の心から心へとコピーされていく。ただしミームとは何かという定義は論者によって幅がある。

ミームは遺伝子との類推で考察され、この類推はミームが「進化」する仕組みを、遺伝子が進化する仕組みとの類推で考察するものである。遺伝子が生物を形成する情報であるように、ミームは文化と心を形成する情報である。遺伝子は子孫へコピーされる生物学的情報であるが、ミームは人から人へコピーされる文化的情報である。遺伝子は「進化」するが、ミームにも「進化」という現象が生じており、それによって文化が形成される。
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文化が継承される中で、音でストラディバリウスを超えるバイオリンが生まれているのであれば、機能や外形の進化ではなく”感覚”の進化を示すもの。まさに快哉、慶事ではないか。

バイオリンではないが、ヤイリギターの社長が成功の秘訣はと問われて答えている。
”コンサルタントの進めに従った同業者は軒並み廃業したが、内は余剰の資金でひたすらよい材料を買い続け、増産もせずに職人に任せたギター作りを続けている”と。

変らないという進化
近代市場原理に懐柔された人々は、歴史とりわけ技術は必ず進化し続けるものと無意識に了承している。 一方生きるという行為は泥臭いもので、あるところで進化を止めてしまった物も数多くある事が判る。本当に大切なモノは、案外その泥臭い世界のなかにある。

一つの協認識の完成形として、進化或いは変化を許容しないという選択は、言葉にすると保守的で退行するような印象を持つが、それこそが地域・民族・など広い意味でのアイデンティティーの根源ではないだろうか?。

成り立ちやカテゴリーの異なるものを同列に論じる事は、穿った見方をすれば敢えて本質を見誤らせるためとも解釈される。話はすこし大きくなってしまうが、たとえば現在取り沙汰されているTPP。
日本の農業を捉えて国際競争力を付ける為に、株式化や農業の企業・集約を進めると簡単に言うが、牽いては日本人のアイデンティティーを揺るがす可能性が極めて高いと危惧している。

金銭の遣り取りがあれば全て同一の経済原理によって判断するという事は、本質を欠いた幻想で、過去を顧みれば今まで何度も何度も同じ轍を踏み失って来たのではなかったか。
固有の文化・農業などが、国際化という名の元に文化的背景を無視して議論される事にも大きな危惧を覚える。変えないという選択こそが、未来に繋がると思う。

オーディオは優れて感覚の機器である。この意味に於いて、バイオリンや楽器に近い。
オーディオを”ミーム”という切り口で取り上げたいと思う。 

皆さんは、このコラムを読んでどの様な感想を持たれるのだろうか?





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