新年明けましておめでとうございます。
当Blogにご訪問いただきありがとうございます。
更新も不定期、さらにつたない記事にお付き合いいただきありがとうございました。
今年は、新しい取り組みもしつつ頑張っていければと思っています。
2014年もよろしくお願いいたします。
Listening Impression
EAR 912
最初に気付かされるのは、提示される空気が違うと言う事。音ではなく空気の質が違う。清流<柿田川>の伏流水の沸き出でる如く。場の空気を一変させる。空気は浄化されたかの様に軽く、伝わる音はCDであっても上質な楽器本来の音を髣髴とさせる。
具体的に特徴を纏めると。音が出るその瞬間の出方が本当の楽器そのもののような出方をする。突出したところが無く、そして消え行く様も自然であるため、空間さえも意識させない。発音から消音までのエンベロープの美しさである。そのため、タイミングやパートの表情 響の量・形 音像 ステージ 個別の評価項目は全て過不足がない。
たとえ録音の悪いレコードであっても、どうして録音が悪いと思ったのか解らないほどに素晴らしい音を再現してくれる。まるで録音されてパッケージに押し込められた音を元に戻す呪文か解凍ソフトをParavicini氏は知っているのだろうか?
総合カタログの見開きに”オーディオ装置は独自の音は持ってはいけない”次に”入ってくる音をそのまま出すだけ”と基本的な設計理念を明らかにしている。その結果、美しい音を更に美しく、感動的な音を更に感動的に聴かせてリスナーを魅了するとある。
最初の理念はオーディオ人のほとんどが口にする。これに異を唱える人は居ないだろう。ところが、次に”美しい音を更に美しく”となると、ピュアー思想の人々は理解出来ないのではないだろうか?
しかし、音を聴けばその主張に偽りはない。確かに、このアンプの音色は極自然で、そこに不自然さは感じない。違うのは先に書いたとおり空気のあり方。EAR 912は、アナログレコードのためのイコライザーが何よりのメインフューチャーであるが、聴きなれたCDも絶品である。
エアー感
空気の在り様・エアー感を説明しようとすると難しい。楽器の音・人の声はそのものが音を出すのではなく空気を介して・空気そのものの揺らぎであり振動であるから、音はその時・その場の空気の質量を伴っているその媒質感。
しかし、後述するように他のアンプと較べたりして更に注意深く聴いて見ると、個々の要素では、際立って優れていると言う事でもなく、全体的な鳴り方 エアー感に優れていると言えると思う。
このエアー感はどこから来るのか。何が違うのだろう。
お借りしているアンプなので、内部を詳細に見る事は控えているが、部品もそれ程良い物を使用している訳でもなく、取回しのルートは長く、接点の数も多い、加えて高額な真空管アンプでありながらプリント基板であり、電源もダイオード整流のコンデンサーインプット式でチョークも無い。
特徴としてParavicini氏は、真空感と一体となったトランスの効用を繰り返し主張している。
プロオーディオの世界でエアー感があると評価されているモノは、ほぼ間違いなくトランスを入出力に備えている。ところがコンシューマーの世界では、トランスは、余計なモノ、或はピュアリティーを損うモノとの認識が主流で、例外的にMCカートリッジの昇圧トランス・真空管アンプの出力トランスがある程度。ラインレベルのモノはCDのデジタル臭さを緩和するという消極的な理由によっての存在であった。コンシューマーの世界で、はっきりとトランスが音楽の”全体性”を再現するために必要だと主張していたのは、趣味性の高いハンドビルドメーカーなどのごく一部ではあったものの、メジャーな場ではEARは筆頭ではないだろうか。
今まで多くのアンプ設計者と話しをしてきたが、ラインレベルのトランスに対して肯定的な見解を述べる人は皆無だった。アナログが音が良いとする人でも、そのレコードが造られる過程で数十個のトランスを経ていると言う事は、不問に或は無視していた。そして僅か一つの接点に拘り腐心する。
部品や細部の積み上げでエアー感を得る事は出来るのだろうか。
音の良い部品を検証し・集めて作り上げれば良い音のアンプが仕上がるならば実に簡単なことではないか。
過っての自分の体験を語れば、ある抵抗・コンデンサーを交換したところ劇的に音が良くなる事がある。そうか!これだこれだ!と勇躍すべてのコンデンサー・抵抗を同一種に交換したらどれ程素晴らしい音がするだろう。決心し部品を集め寸暇を惜しんでやり遂げる。やった~。よーし音を出すぞと逸る気持ちを抑えながらスイッチを入れる。
しばしの高揚と恍惚を味わった後に、とっておきの試聴盤を取り出してその熱気を失う事になる。
あれ~てなもんである。こんな筈ではなかった。挙句、ナーンだあまりに音が良くなったので、録音の粗が出てしまったのだ。そうだそうだと気を取り直して再び悦に入る。
何度同じことを繰り返してきただろう。何が音が良いのか定立の問題も有るかもしれない。”同じ峰を目指しているが、そこへ行く過程が違う”とも説明される。以前は、自分もその様に考えていたけれども、今では同じ峰を目指しているのか疑問に思っている。
細部を磨いても最終的な全体像が見えないので、細部に拘る原音比較法で部品や回路の詳細を積み上げる手法は、全体像を持っていないが故に何かに変容することが無い。
あらゆる可能性と努力は試みる価値がある。その事に異議は勿論無いが、全体像を持ちえぬ努力は、循環の中に入り込み終わることが無い。細部の意味合いは全体像の中で検証される時に意味を持つ。”合成の誤謬”に陥りはしないか。
このエアー感の獲得は、個別の部品選定などのブラッシュアップではなく、異なったアプローチが必要なのではないだろうか。”部分の集合は、全体”とする還元主義的なアプローチから「全体とは、部分の総和以上の何かである 」全体性を見失わない考え方は「ホーリズム(Holism)」と呼ばれている。
EARは、”音楽の全体性”を保持する最も適切なピースとして選び取った”部分”がトランスだったと言う事なのだろう。しかし、トランスは魔法の小箱なのだろうか?実際に使用してみれば判る様に、トランスにも他の部品と同様に功罪がある。しかし、色々試すとトランスには、音楽を”音楽”として聴かせる働きが在る様に感じている。
EAR 912 & 509Ⅱの組合せでは、レスポンス・鮮度も十分以上に表現されて不足を感じない。しかし、必要以上に反応し高性能を感じさせ無いように、絶妙のレスポンスを設定しているのではないか?魔法の秘密は、まさにここにあると感じ始めていた。
魔法の秘密
アナログという歴史の中で、必要以上の鮮度感やレスポンスは時に違和感を与える可能性がある。例えば、記憶の中にある【Anita Sings The Most]を歌うアニタ・オデイが37歳であったのに、それが27歳に聴こえたら多くのリスナーは、そこにはやはり違和感を持つのではないだろうか。そのためにレコードによって育まれた質感を壊さないように敢えて鮮度感を抑えている。その結果、リスナーは安心して音楽を楽しむことが出来るし、少し抑えられた鮮明さと引き換えに初動の反応の良さと消えゆく音の繊細さを以って、音と音の空気感を自然に意識させる。この事により音そのものが際立ち、豊かな響きを感じられる。だからこそCDも際立って音楽的な響き・質感を持って聴こえてくるのではないだろうか。と試聴しながら思い始めていた。
マイケルソン・オースティン回路・本アンプの説明を読んでいて不思議に思うのは、位相反転を何故トランスでやらなかったのだろうかという事である。クアドラファイラーという複雑な巻線構造のアウトプットトランスを採用しトランスの効用を繰り返し主張するので、ここにトランスを採用する事に問題は無い筈である。開発の段階で当然検討されたと思うが、音がスッキリとし過ぎるため見送ったのではないだろうかと予想する。
一般的にアンプの設計者はパッケージメディア レコードなりCDを原音として取扱い音楽信号が劣化しない事に注力するが、Paravicini氏はエンドユーザーのアンプの段階、彼にとってはEAR 912をメディアの最終段階つまり録音時にコンプレッサーで処理した音楽信号をここで元に戻している様にも感じられる。
EAR 509Ⅱ
EAR 509Ⅱは、だいぶ以前に聞いた記憶のマイケルソン・オースティンの力強く豪快に鳴らす印象ではなく、100wであることを全く意識させない。初動の反応の良さと絞った時でさえ音の形はまったく崩れない。まるで、直熱三極管シングルそのもののような楚々とした繊細さがありながら、際限なくスピーカーを自在に操る豪腕さを併せ持つ。透明感は、最初に書いたように水の持つ透明感であり、EAR 509Ⅱの音を主張する事はなくアンプの存在を意識させることが無い。更に言えばスピーカーも鳴らす部屋さへも意識させ無い。
EAR 912の空気が純化される魔法ともいえる作用は、次に繫がるパワーアンプにも維持される。これは、プリアウトの信号そのものが今までと比較して異なっていると考えられる。Roksan ,KOREEDA のアンプは今までの鳴り方からEARの純化された鳴り方へと変化する。Koreeda 300B の秋空のように乾いた空気の透明感から最初に書いたように水の持つ透明感へと変わる。響の豊かさがある。どちらが自然かと問われると答えに窮するが、聴いていてどちらも不足はない。現状、Manifestoでは、Koreeda 300B でチューニングしているので、より迫真的で魅力的な音がするし、Roksan ROK-M1.5は更に鬼気迫る音を聴かせてくれる。その意味ではアンプの主張があるが、EAR 509Ⅱはまったくストレスを感じさせない。純正の組合せでEAR 509Ⅱは、EAR 912の印象のままにスピーカーをコントロールしているように感じさせる。
Professionalの意味
EAR 912 & 509Ⅱは名ばかりのProfessionalではなく、プロの現場でも活躍し、PAにも用いられる。http://www.stereosound.co.jp/blog/tubekingdom/article/2013/11/05/26120.html
ところが、圧迫感の無い佇まい、誇張感の無いストレスを感じさせない音、豊かに広がる音空間などから、すっかり個人の趣味に成ってしまったオーディオがリビングに置いて同時に家族も楽しむことが出来る懐の深さがある。そして夜半に家族に障らない小さな音量でも楽しむ事も出来る。その意味でQUAD の流れを汲むようにも思うし、すっかり別のカテゴリーとなってしまったようなプロオーディオも守備範囲とする。プロ機ということではなく音楽を聴かせるProfessionalの矜持を感じさせる。
CD Records
何を聞いても不満の無い音楽を聞かせてくれるので、試聴記にもならないのだが、今回CDで取り上げたのは、この二枚。もう一枚、このブログを村治 佳織のCDを掛けながら書いている。ロマニリョスの拍子木のように鋭くそして木管楽器のような柔らかい響きが完璧に再生されて聞き惚れてしまう。アナログの試聴記は、思うところがあったので次回とします。
Beethoven/Mendelssohn / Violin Concerto:
Heifetz(Vn), Munch / Bso
01.Concerto for Violin in D major, Op. 61
02.Concerto for Violin in D major, Op. 61
03.Concerto for Violin in D major, Op. 61
04.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
05.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
06.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
Heifetzのバイオリンは時として、正確さとテクニックが先行して評価をされることがある。しかし、彼独特の下弦の篭ったような・人の声のような何とも言えない音色と絶対的に安定した音程、高弦の輝くような透明感のある音色は、素晴らしい。 この演奏は、アメリカのオーケストラと言う事もあってかパワフルだとかエネルギッシュという印象を持つ方が多いのかもしれないが、このアンプで聴くとその評価に疑問符が付く。
CDも以前出た普通の盤である。Living Stereoの録音は今でも素晴らしくまったく古さを感じさせないし、Heifetzのバイオリンも艶やかで、歌うような音色も素晴らしい。
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ハイフェッツが20世紀を代表する大巨匠であることは衆目の一致するところであるが、個人的にはどうも好きになれなかった。いや、むしろ憎んでいたといっても過言ではない。CDで聴くハイフェッツは何れも機械的で艶がなく、無機質で拙速で、ロマンのかけらもないように思っていた。加えて音質も悪いという印象だったこともあり、当サイトでも散々酷評してきた。しかし、平林直哉氏自身をして超高音質で有名なXRCDを超えるというからには、一体どんな音が鳴るのだろうかと思い、演奏はさておき音を楽しむつもりで購入。聴いてみて唖然呆然!散々批判してきたはずのハイフェッツに感動を覚えている自分にはっとした!そう、何とこの平林直哉復刻盤、我が偏見を180度覆し、私を一気にハイフェッツのファンへと変えてしまったのだ!そのヴァイオリンの音色は恐ろしく豊饒で、タイトでありながら金属的になることがなく、ふとしたところに垣間見る甘美な響きの、何と艶やかなことか。人間味に欠けているような冷たい印象はどこへやら、曲に対する真摯な想いが一つ一つの音にこもり、実に熱い!「ああ、これが本当のハイフェッツなのか」と、今までの無知を恥じたい。
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The House Of Blue Lights / Eddie Costa
Eddie Costa - Piano
Wendell Marshall - Bass
Paul Motian - Drums
1. House of Blue Lights (Gigi Gryce)
2. My Funny Valentine (Rodgers-Hart)
3. Diane (E. Rapee-L. Pollack)
4. Annabelle (Eddie Costa)
5. When I Fall in Love (Heyman-Young)
6. What’s to Ya (Eddie Costa)
Recorded in NYC, Jan. 29 & Feb. 2, 1959
Eddie Costa 畢生の名演、ジャズ史に於いても屈指の名盤。初めて聴いた時、ぶっ魂消た。鉈で塑像したかのような、ジャズの彫刻。パーカッシブな左手の連打とハーモニックな右手が繰り出すクラスターからホーミーの様にメロディーが浮いて聴こえてくる。特徴的なリズムセクションのテーマが何度も繰り返されると、幻聴のようにEddie Costaのピアノが響き実際のピアノをよりポリフォニックにする。この強靭で、精密に計算された音のクラスターがきちんと再現できないと隠されたメロディーが浮かび上がってこない。
当Blogにご訪問いただきありがとうございます。
更新も不定期、さらにつたない記事にお付き合いいただきありがとうございました。
今年は、新しい取り組みもしつつ頑張っていければと思っています。
2014年もよろしくお願いいたします。
Listening Impression
EAR 912
最初に気付かされるのは、提示される空気が違うと言う事。音ではなく空気の質が違う。清流<柿田川>の伏流水の沸き出でる如く。場の空気を一変させる。空気は浄化されたかの様に軽く、伝わる音はCDであっても上質な楽器本来の音を髣髴とさせる。
具体的に特徴を纏めると。音が出るその瞬間の出方が本当の楽器そのもののような出方をする。突出したところが無く、そして消え行く様も自然であるため、空間さえも意識させない。発音から消音までのエンベロープの美しさである。そのため、タイミングやパートの表情 響の量・形 音像 ステージ 個別の評価項目は全て過不足がない。
総合カタログの見開きに”オーディオ装置は独自の音は持ってはいけない”次に”入ってくる音をそのまま出すだけ”と基本的な設計理念を明らかにしている。その結果、美しい音を更に美しく、感動的な音を更に感動的に聴かせてリスナーを魅了するとある。
最初の理念はオーディオ人のほとんどが口にする。これに異を唱える人は居ないだろう。ところが、次に”美しい音を更に美しく”となると、ピュアー思想の人々は理解出来ないのではないだろうか?
しかし、音を聴けばその主張に偽りはない。確かに、このアンプの音色は極自然で、そこに不自然さは感じない。違うのは先に書いたとおり空気のあり方。EAR 912は、アナログレコードのためのイコライザーが何よりのメインフューチャーであるが、聴きなれたCDも絶品である。
エアー感
空気の在り様・エアー感を説明しようとすると難しい。楽器の音・人の声はそのものが音を出すのではなく空気を介して・空気そのものの揺らぎであり振動であるから、音はその時・その場の空気の質量を伴っているその媒質感。
しかし、後述するように他のアンプと較べたりして更に注意深く聴いて見ると、個々の要素では、際立って優れていると言う事でもなく、全体的な鳴り方 エアー感に優れていると言えると思う。
このエアー感はどこから来るのか。何が違うのだろう。
お借りしているアンプなので、内部を詳細に見る事は控えているが、部品もそれ程良い物を使用している訳でもなく、取回しのルートは長く、接点の数も多い、加えて高額な真空管アンプでありながらプリント基板であり、電源もダイオード整流のコンデンサーインプット式でチョークも無い。
特徴としてParavicini氏は、真空感と一体となったトランスの効用を繰り返し主張している。
プロオーディオの世界でエアー感があると評価されているモノは、ほぼ間違いなくトランスを入出力に備えている。ところがコンシューマーの世界では、トランスは、余計なモノ、或はピュアリティーを損うモノとの認識が主流で、例外的にMCカートリッジの昇圧トランス・真空管アンプの出力トランスがある程度。ラインレベルのモノはCDのデジタル臭さを緩和するという消極的な理由によっての存在であった。コンシューマーの世界で、はっきりとトランスが音楽の”全体性”を再現するために必要だと主張していたのは、趣味性の高いハンドビルドメーカーなどのごく一部ではあったものの、メジャーな場ではEARは筆頭ではないだろうか。
今まで多くのアンプ設計者と話しをしてきたが、ラインレベルのトランスに対して肯定的な見解を述べる人は皆無だった。アナログが音が良いとする人でも、そのレコードが造られる過程で数十個のトランスを経ていると言う事は、不問に或は無視していた。そして僅か一つの接点に拘り腐心する。
部品や細部の積み上げでエアー感を得る事は出来るのだろうか。
音の良い部品を検証し・集めて作り上げれば良い音のアンプが仕上がるならば実に簡単なことではないか。
過っての自分の体験を語れば、ある抵抗・コンデンサーを交換したところ劇的に音が良くなる事がある。そうか!これだこれだ!と勇躍すべてのコンデンサー・抵抗を同一種に交換したらどれ程素晴らしい音がするだろう。決心し部品を集め寸暇を惜しんでやり遂げる。やった~。よーし音を出すぞと逸る気持ちを抑えながらスイッチを入れる。
しばしの高揚と恍惚を味わった後に、とっておきの試聴盤を取り出してその熱気を失う事になる。
あれ~てなもんである。こんな筈ではなかった。挙句、ナーンだあまりに音が良くなったので、録音の粗が出てしまったのだ。そうだそうだと気を取り直して再び悦に入る。
何度同じことを繰り返してきただろう。何が音が良いのか定立の問題も有るかもしれない。”同じ峰を目指しているが、そこへ行く過程が違う”とも説明される。以前は、自分もその様に考えていたけれども、今では同じ峰を目指しているのか疑問に思っている。
細部を磨いても最終的な全体像が見えないので、細部に拘る原音比較法で部品や回路の詳細を積み上げる手法は、全体像を持っていないが故に何かに変容することが無い。
あらゆる可能性と努力は試みる価値がある。その事に異議は勿論無いが、全体像を持ちえぬ努力は、循環の中に入り込み終わることが無い。細部の意味合いは全体像の中で検証される時に意味を持つ。”合成の誤謬”に陥りはしないか。
このエアー感の獲得は、個別の部品選定などのブラッシュアップではなく、異なったアプローチが必要なのではないだろうか。”部分の集合は、全体”とする還元主義的なアプローチから「全体とは、部分の総和以上の何かである 」全体性を見失わない考え方は「ホーリズム(Holism)」と呼ばれている。
EARは、”音楽の全体性”を保持する最も適切なピースとして選び取った”部分”がトランスだったと言う事なのだろう。しかし、トランスは魔法の小箱なのだろうか?実際に使用してみれば判る様に、トランスにも他の部品と同様に功罪がある。しかし、色々試すとトランスには、音楽を”音楽”として聴かせる働きが在る様に感じている。
再度確認するためにKoreeda preに繋ぎ変えた時、Roksan ROK-L1を接続した時の方が鮮度・レスポンスが良かった。どちらも最適化する工夫をしてあるし、インプットトランスあっての評価である。不思議に思い更に様々なジャンルのソフトを掛けて試聴を続けた。
EAR 912 & 509Ⅱの組合せでは、レスポンス・鮮度も十分以上に表現されて不足を感じない。しかし、必要以上に反応し高性能を感じさせ無いように、絶妙のレスポンスを設定しているのではないか?魔法の秘密は、まさにここにあると感じ始めていた。
魔法の秘密
アナログという歴史の中で、必要以上の鮮度感やレスポンスは時に違和感を与える可能性がある。例えば、記憶の中にある【Anita Sings The Most]を歌うアニタ・オデイが37歳であったのに、それが27歳に聴こえたら多くのリスナーは、そこにはやはり違和感を持つのではないだろうか。そのためにレコードによって育まれた質感を壊さないように敢えて鮮度感を抑えている。その結果、リスナーは安心して音楽を楽しむことが出来るし、少し抑えられた鮮明さと引き換えに初動の反応の良さと消えゆく音の繊細さを以って、音と音の空気感を自然に意識させる。この事により音そのものが際立ち、豊かな響きを感じられる。だからこそCDも際立って音楽的な響き・質感を持って聴こえてくるのではないだろうか。と試聴しながら思い始めていた。
マイケルソン・オースティン回路・本アンプの説明を読んでいて不思議に思うのは、位相反転を何故トランスでやらなかったのだろうかという事である。クアドラファイラーという複雑な巻線構造のアウトプットトランスを採用しトランスの効用を繰り返し主張するので、ここにトランスを採用する事に問題は無い筈である。開発の段階で当然検討されたと思うが、音がスッキリとし過ぎるため見送ったのではないだろうかと予想する。
一般的にアンプの設計者はパッケージメディア レコードなりCDを原音として取扱い音楽信号が劣化しない事に注力するが、Paravicini氏はエンドユーザーのアンプの段階、彼にとってはEAR 912をメディアの最終段階つまり録音時にコンプレッサーで処理した音楽信号をここで元に戻している様にも感じられる。
EAR 509Ⅱ
EAR 509Ⅱは、だいぶ以前に聞いた記憶のマイケルソン・オースティンの力強く豪快に鳴らす印象ではなく、100wであることを全く意識させない。初動の反応の良さと絞った時でさえ音の形はまったく崩れない。まるで、直熱三極管シングルそのもののような楚々とした繊細さがありながら、際限なくスピーカーを自在に操る豪腕さを併せ持つ。透明感は、最初に書いたように水の持つ透明感であり、EAR 509Ⅱの音を主張する事はなくアンプの存在を意識させることが無い。更に言えばスピーカーも鳴らす部屋さへも意識させ無い。
EAR 912の空気が純化される魔法ともいえる作用は、次に繫がるパワーアンプにも維持される。これは、プリアウトの信号そのものが今までと比較して異なっていると考えられる。Roksan ,KOREEDA のアンプは今までの鳴り方からEARの純化された鳴り方へと変化する。Koreeda 300B の秋空のように乾いた空気の透明感から最初に書いたように水の持つ透明感へと変わる。響の豊かさがある。どちらが自然かと問われると答えに窮するが、聴いていてどちらも不足はない。現状、Manifestoでは、Koreeda 300B でチューニングしているので、より迫真的で魅力的な音がするし、Roksan ROK-M1.5は更に鬼気迫る音を聴かせてくれる。その意味ではアンプの主張があるが、EAR 509Ⅱはまったくストレスを感じさせない。純正の組合せでEAR 509Ⅱは、EAR 912の印象のままにスピーカーをコントロールしているように感じさせる。
Professionalの意味
EAR 912 & 509Ⅱは名ばかりのProfessionalではなく、プロの現場でも活躍し、PAにも用いられる。http://www.stereosound.co.jp/blog/tubekingdom/article/2013/11/05/26120.html
ところが、圧迫感の無い佇まい、誇張感の無いストレスを感じさせない音、豊かに広がる音空間などから、すっかり個人の趣味に成ってしまったオーディオがリビングに置いて同時に家族も楽しむことが出来る懐の深さがある。そして夜半に家族に障らない小さな音量でも楽しむ事も出来る。その意味でQUAD の流れを汲むようにも思うし、すっかり別のカテゴリーとなってしまったようなプロオーディオも守備範囲とする。プロ機ということではなく音楽を聴かせるProfessionalの矜持を感じさせる。
CD Records
何を聞いても不満の無い音楽を聞かせてくれるので、試聴記にもならないのだが、今回CDで取り上げたのは、この二枚。もう一枚、このブログを村治 佳織のCDを掛けながら書いている。ロマニリョスの拍子木のように鋭くそして木管楽器のような柔らかい響きが完璧に再生されて聞き惚れてしまう。アナログの試聴記は、思うところがあったので次回とします。
Beethoven/Mendelssohn / Violin Concerto:
Heifetz(Vn), Munch / Bso
01.Concerto for Violin in D major, Op. 61
02.Concerto for Violin in D major, Op. 61
03.Concerto for Violin in D major, Op. 61
04.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
05.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
06.Concerto for Violin in E minor, Op. 64
Heifetzのバイオリンは時として、正確さとテクニックが先行して評価をされることがある。しかし、彼独特の下弦の篭ったような・人の声のような何とも言えない音色と絶対的に安定した音程、高弦の輝くような透明感のある音色は、素晴らしい。 この演奏は、アメリカのオーケストラと言う事もあってかパワフルだとかエネルギッシュという印象を持つ方が多いのかもしれないが、このアンプで聴くとその評価に疑問符が付く。
CDも以前出た普通の盤である。Living Stereoの録音は今でも素晴らしくまったく古さを感じさせないし、Heifetzのバイオリンも艶やかで、歌うような音色も素晴らしい。
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ハイフェッツが20世紀を代表する大巨匠であることは衆目の一致するところであるが、個人的にはどうも好きになれなかった。いや、むしろ憎んでいたといっても過言ではない。CDで聴くハイフェッツは何れも機械的で艶がなく、無機質で拙速で、ロマンのかけらもないように思っていた。加えて音質も悪いという印象だったこともあり、当サイトでも散々酷評してきた。しかし、平林直哉氏自身をして超高音質で有名なXRCDを超えるというからには、一体どんな音が鳴るのだろうかと思い、演奏はさておき音を楽しむつもりで購入。聴いてみて唖然呆然!散々批判してきたはずのハイフェッツに感動を覚えている自分にはっとした!そう、何とこの平林直哉復刻盤、我が偏見を180度覆し、私を一気にハイフェッツのファンへと変えてしまったのだ!そのヴァイオリンの音色は恐ろしく豊饒で、タイトでありながら金属的になることがなく、ふとしたところに垣間見る甘美な響きの、何と艶やかなことか。人間味に欠けているような冷たい印象はどこへやら、曲に対する真摯な想いが一つ一つの音にこもり、実に熱い!「ああ、これが本当のハイフェッツなのか」と、今までの無知を恥じたい。
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The House Of Blue Lights / Eddie Costa
Eddie Costa - Piano
Wendell Marshall - Bass
Paul Motian - Drums
1. House of Blue Lights (Gigi Gryce)
2. My Funny Valentine (Rodgers-Hart)
3. Diane (E. Rapee-L. Pollack)
4. Annabelle (Eddie Costa)
5. When I Fall in Love (Heyman-Young)
6. What’s to Ya (Eddie Costa)
Recorded in NYC, Jan. 29 & Feb. 2, 1959
僕もEAR凄いなーって思いながら弄ったことがあります
返信削除カップリングとバイパスコンデンサー片方だけでも別のコンデンサーに交換するだけでエアー感が死んでしまったのは良い思い出、アルミコンデンサー以外の全てのパーツであの音を形作ってると思うと常人じゃ作ることが不可能なアンプなのかもしれません